生活チープサイド

セルフストーリーオペラ「僕を産んでくれた神様」

写真家ダイさんのセルフストーリーオペラ。
ダイさんのお母さんは、9月27日に大腸がんで亡くなった。
2年半の闘病生活でばらばらだった家族がひとつになり、この日を迎えた。
7月31日に膵臓がんで母を亡くした私は、だからダイさんたちのことが他人事のように思えなかった。
私の母がまだ生きていたころ、ダイさんのお父さんもまた大腸がんの手術をすることになり、私はホスピスからその手術がうまくいくよう祈っていた。

そんなダイさんたちの物語。
感想を書こうとすると、うまく言葉が出てこない。
ライブレポのように書こうとしたけれど、あまりに自分の気持ちが大きくなりすぎてしまって書けなかった。
だから、あの日私が感じたこと、あの日以来考えていることを書きたいと思う。

11月1日。
この日はエジプトの死者の日なのだとAKIRAさんが言った。
その、あまりの符号にびっくりした。
会場はBUNGA、荻窪のこぢんまりしたライブバーだ。
ほんとにたくさんの人が詰めかけていた。
入口でもらったお花を、ダイさんのお母さんの写真に夫と二人で捧げた。

私には、母が死んでからずっと考えていることがある。
それは、死とはなんだったのか、ということだ。
母の死の瞬間は、ほんとうにほんとうに美しかった。
何度書いても何度思い出しても、あの神聖な光るような光景は忘れられない。
そして、死に至るまでのあの4ヶ月半、あの奇跡のような時間、私はほんとうにいろんなものを見た。

まるで視力がよくなったようだった。
暗闇でものが見えるようになったように、あのとき私は、ものすごく遠くまで見ることができた。
知るはずのないことも知った。
母が生まれ変わるのだと、そしてそれは私が母をもう一度産むのだと、あの時私は手でさわれるくらいはっきりと感じていた。
まぶしい光に照らされているかのように、それはとても明確だった。

でも、母の死後3カ月たち、私を照らしていた光は消えてしまった。
私はまた、一歩先のものさえ見えない、もとの自分に逆戻りしてしまった。
あんなにはっきりしていた「母を産む」ことさえ、もうよくわからなくなってしまった。

そして思った。
「死」は私にとって「灯台」だったのだなあと。

あの4ヶ月半、私は必死だった。
大学病院に泊まり込み、ナースステーションで談判状を握って交渉し続けた。
母の吐いたもので汚れたパジャマを、屋上の風の吹きすさぶ洗い場で手が真っ赤になるまで洗い続けた。
介護保険の手続きから詩集の発行の連絡から何から、ありとあらゆる電話をあの病院の屋上でした。
携帯電話代は軽く8万円を超えていた。
ホスピスに転院してからも、母の病状の進行や、詩集の発行の目途がつかないこと、AKIRAさんの祈りライブの手配、まだ引き継いでいない仕事のこと、迫りくる葬儀のための母の知人のリストアップ作業、そして家族についての悩みもあり、私はあのとき本当にきつかった。
きつい、という言葉が追いつかないくらいだった。
病院の売店で弁当を買い、ホスピスに戻るときにどこかの糸が切れ、私はその弁当をアスファルトに力いっぱい叩きつけて、よつんばいになって泣き叫んだ。
ハンバーグ弁当はたったの一撃でこなごなになってしまったけれど、私はビニールがぼろぼろになるまでそれを道に叩きつけた。
スパゲティが土にまみれた、ハンバーグのソースで道が黒くなる。
それを踏みつぶし、叩き、めちゃくちゃにした。
全部が憎かった。
何かを憎みたかった。
ただただ悲鳴みたいに、意味のない言葉を叫び散らした。
道を殴った、荒いアスファルトで手の平が削れた。血が出た。
看護士さんが、ぼろぼろの私を防音室に連れて行ってくれ、熱いお茶とお菓子を出して話を聞いてくれた。
私は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、そのとき何を話したかよくおぼえていない。
母が死ぬ、10日くらい前のことだ。

それでも、どんなにきつい思いをしても、私はあの4ヶ月半を思うと、まるで何か美しい光に照らされていたような気がする。
何度も思い出したい、そして語りたい。
あのときの母が、どんなにきれいだったか。
あのときの私たちが、どんなに強く結びついていたか。

死が灯台である、という思いを強くしたのは、ダイさんと10/5のAKIRAさんのオペラのときに初めて会った時、お母さんを亡くしてまだ10日もしないダイさんが、本当にいい顔をしていたことだった。
光に洗われたみたいなすがすがしい顔、そして多くのものを見た顔だった。
そして、10/28に膵臓がんで亡くなった母の友人ぺんさんのお通夜で、ぺんさんの旦那さんと話したときにも同じことを感じた。

死はエネルギーである、と、母の詩集の装丁を手がけてくれたはしもとさんが、以前日記に書いていた。
私も同じことを感じている。
誕生と同じくらいの大きなエネルギーの動きが、人が死ぬ時には生じる。
そのエネルギーの余波が、それにふれたすべての人に、いろんな影響を与える。
死って、そういうものなのだと思う。
ばらばらになった家族が再結集したり、これまで眠っていた問題が浮き彫りになる。
春一番の大風で、冬の間に降り積もった土ぼこりが吹き払われるみたいに。

ダイさんのオペラで、ダイさんの言葉を聞きながら、AKIRAさんの歌を聴きながら、私はそんなことをずっと考えていた。
最初の曲が「祝福の歌」だったことが、とても嬉しかった。
「私の子供よ、私はつねにあなたと共にある」という歌詞のこの歌ほど、ふさわしい幕開けはないと思った。
AKIRAさんは、次の「Life is beautiful」を歌い終わったとき、手でマイクを挟むようにして合掌した。
それを見て、このオペラにかけるAKIRAさんの気持ちの大きさを感じた。
そして1年前、お母さんをやはりがんで亡くしているJohnnyさんもまた、このオペラに重ねた想いは大きかったのだなと思った。
「Hello my mom!」の最初の1発目のドラムの音から、痛いくらいそれが伝わっていた。

ダイさんの言葉は、どの言葉もとてもまっすぐだった。
私は、母の死後に落ち込んでしまったのと、今も続く母の死後の手続きの煩雑さに、まっすぐにものを考えられなくなっている。
だから、ダイさんが乗り越えてきた日々、乗り越えて先をみつめる姿勢が眩しかった。
そして、お姉さんのエピソードとお父さんのエピソードが、すごく心にせまった。
ステージの横にお兄さんと並んで座っているお姉さん、客席に座っているお父さんを、私はダイさんの言葉を聞きながらじっと見ていた。

「雲の上はいつも晴れだから」で、ステージにお姉さんとお兄さんが上がり、ダイさんと並んだ。
ダイさんはお母さんの写真を抱きかかえ、そして泣いた。
そうだ、きっと見ている。
雲の上から、ずっとお母さんは、母は、わたしたちを見ている。

ぜんぶ終って夫と帰るとき、荻窪駅で入ったトイレで自分の顔を見た。
頬に、まっすぐ涙の線がついていた。
泣いたことに気づかないくらい、集中して聴いた、集中して考えた。
そして、まだ終わらない。
まだ私は終えたくない。
もう少し、私は母のことを考える時間がほしい。
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by sima-r | 2008-11-03 13:54 | Days
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るい 33歳女子。
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